昭和42年07月05日 朝の御理解



 神力無限、神様のお働きというか、神様のお力というのは限りが無い。その限りない、いわゆる無限の働きに十分に浸らしてもらうというか、十分に頂くというか、そういうおかげを頂くためにお互いが信心の稽古をさせて頂く。信心の稽古をさせて頂いて居っても、片一方に神様のその、無限の働きに浴しようと、片一方の手では神様を拝んでおる。片一方の手では。
 それを小さい自分の力で、どうこうしようと云う様なことを、して居る様な信心者がどの位多いか分からない。云うなら、御飯の用意をするのに片一方でしよる人がおる。ほんとにままになりたいと云う願いは誰でも持って居る。そのままになりたい、ままになるその御飯の準備を片手でしておる。片手で神様お願いしますとこう言う。それではおかげにならん。もう 両方の手はいわゆるこの合掌の姿。ね、
 神様、おかげを頂かなければ立ち行くっちゃございません。あなたのおかげを頂かなければ出来ることじゃありませんと。と云うところにですね、小さい人間の知恵とか力と言ったようなものを、が、そこに出て参りましては、そういうおかげが受けられんのです。無限の神情、神様のお力というものに触れる為に、そこんところをお互い段々体得させて頂かねばならんと。おかげは受け得、受け勝ちと仰る。ね。
 その受けるということ、受け勝ち受け得と。ね、自分で努力をして得るもんじゃないと云うこと。人徳を得よ、神徳を受けよと、神徳というものは受けるもの、それを受けるにもです、ね、両方の手で受けるのと片一方の手で受けると云うのは大変な違いです。そんならその百のものであるならば、五十で片一方の手で受けられるかというとそうじゃないです。もうしますようにその両方の手ですればです。
 両方の手でするからこそ小さいこまごましいことまで出来るのだけれども、片一方の手だけで出来る筈がないでしょう。だから片一方の手だけで受けるおかげと言うものは、もうちょこっとになるのです。ね、僅かな僅かなものになるのです。云うならば、教祖の神様が仰る御教えの中に「学が身を喰う」と云ったようなものは、そういう場合があります。学問をする。頭でひねる。ね、
 ですから、いわゆる学が身を喰うじゃなくて、もう学がおかげを喰うてしまうわけなんです。ね、なまじっかその学問がかえっておかげを少しにしてしまう。成る程教祖は学徳のことをいわば仰られた。学徳を身に付けて行けと。学問を奨励された。ね、ところがですね、ここに一つ、ま、そうですねえ、まあ不思議な現象とでも申しましょうか。じっとお道の信心の、おかげを受けた方達を見てみるとですね。
 学問の無い方達がお徳を受けておるですね。ですからですね、学問をその学徳とこう云うその学徳とまでその学問が進むとまた別だと思いますけれども、それでもやはりその学がちらちらと出て来る。ね、ま手っ取り早い話が九州の道の上のことを辿っても良い。九州の祖といわれる桂大先生もまあ云うならば無学にちかい御方であった。書き残しておられたり、お話をしておられる物を見たり聞いたりしただけで分る。ね、
 久留米の初代なんかも、やはりそうであった。甘木の安武先生あたりでも、ね、お弟子さんの中には大学出の大変な先生方がいくらも居られたけれども、御自分はそういうことは、そういういわば学問は持ってはおられなかった。ちょうどそこをこう申しますと、学問排斥論の事ございますけれどもです。私は今日言いたいことは、そのなまじっかな、いわば学がです、ね、身を喰うことになる、という恐れを言うとります。
 学問だけじゃありません。ね、自分に少しでもまあ如才なくやって行けれる才覚がありますと、その自分の才覚にやられてしますという人があります。ですから本当言うたら、頭が良くない、私のように。なあんにもしきらん。それが続いてるんだものね。おかしな話なんだけれども、この頃十万円を数えよると、必ず間違う。ね、と、云う程に頭が悪い。さあテレビをひとつ見ようと思うけども。
 いまんテレビはややこしいから、さあどれば押せば何処が出て来るかまだ分からん。自分でだから見だしたらもうそこばっかり見らんならん。おかしなおかしな話なんですよね。誰かが来たら、どげんこうしてもらわにゃでけん。自分でそれを覚えようとも思わない。けれども、さあ電気が消えたからと云うて、電気の修繕をしきるわけでもなかななければ、さあここが壊れたから。
 金槌持ってきてから、自分が修繕をするようなその手の利いた事も出来ん。そのいわばほんとに何にも出来ないという事をです、自分でよく分かるのです。何にも出来んのだ。しきらん、神様にお縋りするより他には無いのだ。だから私は誰よりもおかげを頂くと思うのです。そすと皆さん、いま私が申します、自分は機械にはそん明るい、学問はある。ね、もうちょっとしたその大工さんの仕事ぐらい出来る。
 もうなんさしたっちゃ器用だ。と云う人達はそのおかげは受けられんかと云うとそうではない。たとえば今日は分かりやすく言って居る訳なんです。ね、まあそうですね、自分でちょっとした日曜大工ぐらいできますとですね、なる程それはそれだけですね、は致しますよ。けれどもすっきりしたものは一つも出来ませんよ。ね、私どもはなにもでけなかったら、やっぱり大工を雇わにゃでけん。
 ですからいくら素人よりも、やっぱ玄人のしたつのが垢抜けする。だから結果においては垢抜けした家に、住む事がでける事になる訳なんです。そこでです私どもは何にもでけないと言う事を本当に分ると言う事が、まず先決だと言う事が分るですね。いわゆる自分には力がない、いわゆる愈々我無力と言う事をまず悟る事が、神力無限と言われるその無限の神力に触れる事がでける事が言えますですね。
 理屈じゃないです。ね、皆さんな、どうぞおかげを頂きたいとこう言われるなら、ほんとに願われるなら、両方手でそのおかげを受けようとという気にならなければいけません。まいろいろな例を大変今日は難しい御理解ですから、例をいろいろあげなければ分らない。玉水の湯川先生が、ま、ここの言うならば十八番とでもいうか、・・・・・・・先生のお話を聞いたり、伝えたものを読んだら必ずそんな話が出ております。
 お商売をするなら、神様が御主人だお前は番頭ぞと。家内はあそこの女中さんぞと。と言う生き方。もう自分のものと言うものはこれから先でも自分のものと認めさせなさらない。神様のものぞと認めさせよる。神様がご主人ぞおまえは番頭ぞ、おまえは女中ぞね、だからいわゆる店の主人が番藤さん、奥さんが女中さんだからお前たちの働きいかんによって、神様からの給料が違うてくるのぞとこういわれておる。
 これなんかはそこのところを、もうそれこそもう心憎いまでに、えぐいようにですね、教えておられる方ですよね。今日私が言おうとするところ、また教えておられます。お金が足りません。よし、いくら足らんか、いくらいくら足りません。月末には、いくらいくらの支払いをしなければなりません。よしそんならお願いをするから、お前んとこの金庫を決して数えどもすんな。ね、
 さっさと入るものは入っただけ、出すものは黙って出すだけ勘定どもするな。これが湯川先生のいわゆる御流儀なのだ。これは湯川先生に限らず私どもでもそれをほんとに実感致します。さ今日はいくら売り上げがあった。まいくらするといくらいくら支払いがでける。自分で計算をする。ね、ある商売人の方が、こう言ういお届をさして頂いた。毎月毎月赤字であるのにもかかわらず、ね、
 もうこのまま破算だと言うような状態の時に、玉水におかげを頂かれた。湯川先生はその調子で仰った。 だからもうどっちにしたところで、足らんのだから、ただ一生懸命働かせてもらう。とにかく売上かつがつ金庫の中へ入れるだけ。そして支払は、もうあれば払うと言う生き方で月末締めくくってみたところがちょうど払うだけあった。ほう、不思議なことじゃある。ね、
 神様はどっかから投げ入れて持ってきてくださってあるごとある。ね、おかげでその月はいわゆる赤字にならんで済んだ。ところがその、翌月になったときに、やっぱり同じ流儀でやったけれども、月の25日ぐらいになったら少し心配になって来た。もういくらだんたまっとるじゃろうか、と思うてから開けて見た。ところが後まいくらいくらあればよし、まこのくらいならば、まああと何日間あるから。
 できるだろうと思うて、あのま言うなら、まおかげ頂けるもんだと思うて安心した。さあ、月末、いよいよ支払いということになったっところが、思いがけない支払があったりなんかで、結局足らなかった。先生また今月赤字でしたち。先生がその、その人に仰った。お前は金を数えたろうと仰った。ね、そりゃもう二十五日にまとめて払う時に数えてみたち。そういうことするからおかげにならんのじゃと仰った。
 いわゆる無計算、そういうような在り方の中に今日私が言おうとする矛盾と言うか、無限と言うかね、神様のそういう働きを両方手で頂かして頂けれる、一つの理と言うものを今日は皆さんに聞いてもらいました。なまじっからね、いわゆる学問は、言うなら、生療法はけがの元である。ね、自分の才覚、自分の考え、そのようなことででけることは、もうそれこそたかが知れてる。結局赤字ばっかり出さんならん。ね、
 私はおかげは受け得受け勝ちという教祖のみ教えを申しましたが、ね、ほんとに受け得、受け勝ちのおかげを頂かして頂くためには、どういうような在り方にならせて頂いたら神様のお心に叶うかと言うことだけを一生懸命努力すりゃいいんだ。お商売をさして頂くでも、いかに実意丁寧にです、いかにお客さんを大事にです、心から親切にです、をモットーにしてのお商売を一生懸命です。
 さして頂くということが神様の心に叶うのだ、お喜び頂けるのだというそこんとこだけを一生懸命やっていきゃいいんだ。受け得受け勝ちと、ね、どこまでも受け勝ちである。受け得である。受けるものである。そんなら受けものを作らにゃいかんことが分るじゃないか。その受けものを作ることに一生懸命なりゃいいのだ。なら受けものを作るということがです、頭でひねっちゃいかん、体でしただけじゃいかん。ね、
 神様の教えて下さることを、に忠実に一生懸命、一生懸命ならして頂かんやいかん。受け得受け勝ちじゃから、てれっとしてから待っとるちゅう、いわゆる神様任せとこう言うような言葉の中にです、もう神様にお願いしとるからどうかしてくださるだろうと、棚から牡丹餅を待つような気持ちでは、いかにこちらが受け心はでけても、それでは受けられない。ね、受け勝ち、受け得のおかげを頂くために。
 ですからここに一つ分らして頂くことはです、ね、どんなに力があってもです、その力はどこまでも言うならば、もう泡のようなもんだというかね。どんなに自分に力があっても、その力と言うものはです、もう無力と同じだというところをです、知るが良い。そういうお繰り合わせを頂くが良い。私あのいよいよ、修行が厳しゅうなっていくというちょっと前後に、時にそれをいよいよ感じた。
 自分で商売しきると思うた。ね、しかも誰よりも出来ると思うとったんだもん。人が五つ売る時に二十五は売れる。五倍は売れるとこう、いつもこれはもう確信しとった。はら自分はやっぱりもう商売人だなと自分で自分にそう思いよった。そして自分は知恵があるから、才覚があるから、商才があるからだと言うふうにいうならぬぼれておった。なるほど人よりも五倍ぐらい同じ売るでも売ったことは間違いないけれども。
 神様はぎりぎり、ほんとにその才覚とてもです、神様のおかげを頂かなければできることじゃないのだということを、もう身を持って教えて下さった。いつも商いに出らして頂くときでもです、ね、たったこれだけのことがです、たったこれだけの品物がです、一日がかりで、しかも一つも売れないなんて言うのは、ことはないはずのことが売れなかっ、売れない日が毎日続いた。  
 しかもです、もうここで商談はもう九分九厘整うんですよ。ところが、後の一分の時にサッサとこう外れて行く、向こうから。そういう日々が続いて初めて分ったこと。なるほど自分が商才があるように思いよったけれども、自分の商才ではなかったんだ、神様のおかげを頂かなければでけることじゃなかったんだ、と言うことが分った。いよいよ自分の無力さ加減と言うものが分った。
 自分は勉強してるからこう言うことは詳しいんだ、と、ね、それもよかけれどもです、一度それとてもです、神様のおかげを頂かなければできないのだということをです、やはり分らして頂く体験をね、まず頂かんやいかんです。そして自分、我無力であるという、ね、こちらの手でちっとのことがでけたり、神様のほうにこちらの方でお願いしたり、こげなことでは、ほんとのおかげになりゃせん。
 両方の手が、ほんとにここにこう合うて、合掌になって、ね、あなたのおかげを頂かなければできることではないという、ほんとのお頂戴の姿ならお頂戴の姿がでけなければ おかげげは受けられない。お野菜一本作るなら作ることにおいても同じこと。まだ私が努力して作りよるという間はだめ。そんなら神様だけにお任せしとくと、ちゅう様なことではおかげは受けられないことは勿論のこと。
 種を蒔くそのことだってお水をやることだって、肥料をやることだってあなたのおかげを頂かなければできることではないという。ね、そこをほんとに分かして頂く。私が作ってから神様から少し加勢してもらうというような程度じゃやっぱり、神様からお手伝いして頂くだけぐらいのおかげしか受けられん。もう全部がそのまま神様のおかげで頂かしてもらうのである。ほんとに受け得受け勝ちのおかげを頂くためにはね。
 そこんところが分らんやいかん。今日の御理解は非常に説明がしにくい。まだからいろんな例を持って言うと、お話したから、皆さんがそこんところを間違えんよう一つ頂いて頂きたい。どういうわけに例えば計算をするということが、どこくらいその中に人間心が入るかと言うことを私は言うたんです。ははあ、もう二十五日になってこれだけ貯まっとりゃ、あとはもう大丈夫と言ったような人間心が。
 入ることがいかにおかげの邪魔になることかとなんです、いわば、ね、ですから数えてもいいのです。きちっと計算がでけてもいいのです。けども人間心が入らんようになったらいいんです。問題は。ですからま無謀のようでありますけれども、まずそこんところの一辺体験をなさって見るといいですね。どうでしょうか皆さん、今日からたとえば商売、ね売上はもう金庫の中に放り込んどくだけ、集金に来たなら。
 かぁつがぁつそれから出すだけなか時は払わん。なかちゅう断るよりほかにない。ね、そうしていきよるうちに、いつかちゃんと( ? )があるようにです、お繰り合わせ下さるもの。ね、人間心をそん中に入れたらです、それでけおかげが減るというのではなくてです、それ以上のことが減るということを今日私言うたんです。片一方の手では神様、片一方の手では人間心、ね、
 この両方なら、まあ神心になっとる片一方の手だけでは受るじゃろうと思うけれどそうじゃない。そうでしょうが、片一方の手で何ができますか。ね、ならご飯の用意いっちょさして頂くんでも片一方の手で何ができますか。いうならば( ? )何にもでけんていうことになってくるでしょう。両方の手を使うて初めて、たくあんを切ることもできりゃ、ご飯を仕込むこともできりゃマッチをすることもできるのです。
 この両方の手を使うておかげの頂けれる様なおかげをです、頂くそういうおかげを受け得受け勝ちと言うのである。無限の神力いわゆる神力無限のお徳に浴する事が出来るというのは、愈々私が何にも出来ないという自覚にに立ってからしか、無限の神力には触れる事も、頂く事も出来ないということ。馬鹿らしい話自分の小さいねその商才と言うか、商売、たとえば商売人だから商売の事しか知らんけれど、ね、
 自分で少しばっかり商才がある。誰よりもなかなかアイデアもいい、ね、それで何のことが出来るか。ね、ですからその全体がです、あなたのおかげを頂かなければ出来る事ではないと言う事が分ったときです、ね、いわゆる無尽蔵のおかげにも触れる事が出来る。限りないおかげを頂く事も出来るのである。どうでも片一方の手で受けるようなおかげではつまりません。もうそれはもうほんとにそれこそ涙の。スズメの涙ぐらいのおかげしか受けられません。
 片一方の手だけなら片一方の手だけのものが受けられそうにあるけどそうじゃないです。と言うことをみなさん申しましたですね。片一方の手で何が出来るか、両方の手を使わなければです、出来ることじゃない。どうぞここんところを誤解しないようにね。私は九州の今、言うなら当時三松と言われなさったように、お徳を受けられたもう九州始まって以来の大徳の先生方三人を。例を挙げました。三人ともま言うなら小学校、やっとかっとぐらいの学問の程度しかおありにならなかっただろう。
 それでいていま生き神様のように人から崇められなさった、またあれだけ沢山の人が助かった。確かに学者がおかげが頂きにくいというのが、意味が分るでしょう。と言うて学問をしてはいけんというのではない、そこんところを間違えちゃならん。その学問もいわゆる学徳というところまで、進められて参りましてです、ね、それとても神様のおかげを頂かにゃでけることではない、いわゆる自分の無力と言うものをほんとに分らして頂きゃ、またこれは鬼に金棒でしょうね。
   どうぞ。